2017 / 07
≪ 2017 / 06 - - - - - - 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 - - - - - 2017 / 08 ≫

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

昨日投稿した名フィル366回定期聴取録の続きをアップします。

ラヴェル:スペイン狂詩曲
ルトスワフスキ:オーボエとハープのための二重協奏曲
ホリガー:クリスティアン・モルゲンシュテルンの詩による6つの歌〈日本初演〉
シューマン:交響曲第1番変ロ長調 作品38『春』

指揮・オーボエ:ハインツ・ホリガー
ハープ    :ウルスラ・ホリガー
ソプラノ   :秦茂子


上記のプログラムで行われた366回定期。
昨日はルトワフスキまでの印象を投稿いたしました。
本日は3曲目以降について。

ホリガーの歌曲いったいどんなモノなのだろう??とそれまで聴いた彼の曲から想像していた小生。
ところが聴いてみると、小生の予想をかろやかに裏切るロマンチックな音楽。
ロマンチックではありますがそこはホリガー、響きのそこかしこに現代的な音空間を表現。
今回この曲の白眉はソプラノの秦茂子さん。
彼女の表現力のすばらしさ・声の豊かさ・艶やかさのおかげで、この曲が印象がふくよかになったのだろう。
アンコール、演奏したこの曲中から最も短い「無題」を「再演」。
やはり素晴らしく、静かに、けれどとても深く印象を残した。

さてメインのシューマンの1番「春」。
シューマンのスコアが明確に聞きわけられるようシャープにフォーカスの定まった音作り。
世にう言う「シューマンのオーケストレーションのへたくそさ」もしっかりと聞こえてくる。
この演奏、いわゆる「ロマン派」的な音空間とは少々異なるような、カチッとした演奏とも言えるのかもしれない。スコアを明確にする、そんな音空間を再現するというのもありかな思う。
そしてこれは我らがマエストロ、フィッシャーに通じるものなんだな、とふと思う。
フィッシャーがホリガーを呼ぶわけだ。

さて今回終楽章の一番大事なところで、またやってくれました携帯電話。ホルンが鳴り響きG.P.になった瞬間・・・・もうあれで緊張感が台無し。腹立たしい。。。

今回の定期、ホリガーの音作りを聴いて感じたのは「肌触り」「触感」。彼の音楽は身体的な接触感、肌触りを感じさせるものではなかったか。


さて今回の定期、演奏以外にもプログラムにて西崎専一氏の、とても西崎氏らしい文章を目にして小生嬉しく感じました。無理せず、お元気で健筆をふるってもらいたいものです。







【コメントが無駄に長いという「個人的事情」はどうにもなりません】
西崎専一氏のコラム“音楽のなかの「個人的事情」について”は興味深いものです・・・ひとつは下世話な意味で、ひとつは永遠の議論という意味で。

下世話なほうは谷戸基岩氏に対する怒りの表明方法です。
恐らく谷戸氏の批評の中の「曲目解説の筆者は作曲家の名誉に関わることなので敢えて記さなかったのかもしれないが、これは残念だった。」という一行にカチンときたのだと思います。
そのためシューマンとホリガー夫妻のことを建前にしてはいるものの、どう読んでも言いたいことは谷戸氏への反論であり、それこそ「個人的事情」の匂いが漂うものです。
どちらかを批判するということではなく、よくある「面白そうな喧嘩だね」という下世話な興味をそそられたという次第です。

もうひとつは将に「個人的事情」を読み込むことについての議論は常について回ることだなということです。
例えばシュスタコーヴィチは最後の交響曲15番の第1楽章について「子供の頃の玩具の部屋」と語り、しかし同時に「私がそう言ったからといっても特定のイメージに拘ることはない」ということを言っています。
また新作の初演に先立つ作曲者によるプレ・トークなどは、退屈な作品だった場合には「ありゃ出来の悪い作品について事前に言い訳しているようなものだ」なんて悪口を言いたくなるのですが、そこでもプレ・トークに伴って作品にまとわりつくものをどう読み込む、或いは読み込まないといったことは生じてくると思います。

ぐだぐだ長ったらしく書きましたが、下世話な興味という視点ではなく真面目にこの議論を両者で行うことはできないのか、それを名フィルのパンフレットなどに載せられないかと思う次第です。
【Re: コメントが無駄に長いという「個人的事情」はどうにもなりません】
珍言亭ムジクスさん、コメントありがとうございます。
やっぱりそう思いますよね >一行にカチンときた
小生もあれを読んでそう思いましたです。
それを読んで「お、西崎氏らしいなあ」なんて思ってしまったわけです。

個人が文章を書く以上、何をどのように書こうと「個人的事情」から離れることは不可能ですので、この文章に西崎氏の「個人的な事情」が匂うのはまったく気になりませんでした。

小生、あのコラムの主題はパンフレット11ページの左中程にある
『「この事実を知っていて聴くのと知らないでは感じ方がまったく違うのではないか」ということがあるとすれば、それは「音楽を聴く」こととはやや次元の異なる問題が提起されているように思われます。』にあると読解しました。

もっともその直後にあらわれる『もっとも、こうした「個人的事情」を知るものが「知らな(そうな)もの」に対してそう言ってみたい気持ちはわからなくはありませんが』はとても西崎氏らしい文章ですけど。

珍言亭ムジクスさんがお書きのように、このような議論が名フィルのパンフ上などで交わされるようになるとおもしろい、いやいや望ましいし、それこそ「文化的成熟だ」なんて小生も思うところであります。


> 西崎専一氏のコラム“音楽のなかの「個人的事情」について”は興味深いものです・・・ひとつは下世話な意味で、ひとつは永遠の議論という意味で。
>
> 下世話なほうは谷戸基岩氏に対する怒りの表明方法です。
> 恐らく谷戸氏の批評の中の「曲目解説の筆者は作曲家の名誉に関わることなので敢えて記さなかったのかもしれないが、これは残念だった。」という一行にカチンときたのだと思います。
> そのためシューマンとホリガー夫妻のことを建前にしてはいるものの、どう読んでも言いたいことは谷戸氏への反論であり、それこそ「個人的事情」の匂いが漂うものです。
> どちらかを批判するということではなく、よくある「面白そうな喧嘩だね」という下世話な興味をそそられたという次第です。
>
> もうひとつは将に「個人的事情」を読み込むことについての議論は常について回ることだなということです。
> 例えばシュスタコーヴィチは最後の交響曲15番の第1楽章について「子供の頃の玩具の部屋」と語り、しかし同時に「私がそう言ったからといっても特定のイメージに拘ることはない」ということを言っています。
> また新作の初演に先立つ作曲者によるプレ・トークなどは、退屈な作品だった場合には「ありゃ出来の悪い作品について事前に言い訳しているようなものだ」なんて悪口を言いたくなるのですが、そこでもプレ・トークに伴って作品にまとわりつくものをどう読み込む、或いは読み込まないといったことは生じてくると思います。
>
> ぐだぐだ長ったらしく書きましたが、下世話な興味という視点ではなく真面目にこの議論を両者で行うことはできないのか、それを名フィルのパンフレットなどに載せられないかと思う次第です。
この記事へコメントする















06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
メールなどはこちらから。

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。