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この映画は三人の映画監督による共同作品。
同じ列車で展開される「三つの物語」が紡がれております。
それぞれ別のお話ですが、通底に流れるテーマはあるように感じました。

最初のエピソードはイタリアの映画監督エルマン・オルミによるものです。
イタリアらしく、と括ってしまうのことはイケないのでしょうが、
老教授の中に去来する「エモーショナル」な心の動きが描かれています。
このエモーショナルさがこのエピソードの鍵になると見ていて感じました。
「イタリア人らしく」(笑)自分を世話してくれた美人秘書にほのかな恋心を抱く・・・
生物学の教授という「お堅い」世間体のために、よりいっそうエモーショナルな心の動きが鮮やかに印象づけられます。
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彼が乗っている食堂車の他の乗客の皆様方も皆「エモーショナル」な方々ばかり。
ヘッドフォンの音楽とスコアに合わせ「空気指揮(エアーコンダクト)」をひたすらしている乗客や、
新聞を読みながらひたすらビリビリと破り捨てていく方。
皆「こころのうごき」に素直な人々です。

そんな場所に出現するのがエモーショナルさのカケラを感じさせない、
いやエモーショナルという動きを殺すことによってこそ能力が発揮できる「軍人」さん達です。
軍曹?(この想像は怖い軍人=鬼軍曹という僕の先入観で書かれています 笑)はどっかと老教授のテーブルに腰を下ろします。

軍曹はドリンクを配って歩く給仕のサービスににべもなく「No」

先ほど書きました列車の乗客が過剰にエモーショナルな方々に描かれているが故に、登場した軍人の「非エモーショナル」性が極だって印象づけられます。

「エモーショナル」な心の動きとは何か。とってもベタな換言ですが、それは「人間性」ではないでしょうか。

「人間性」と「非人間性」の対比。このオルミ監督の担当したエピソードには、それが根底に流れているように感じました。

このエピソードの最後に、それが形となって現れます。
「なにやら事情ありげな家族」の若いお母さんがやっと手に入れたミルク用のお湯、それを使ってまさにミルクが完成したときに軍曹がそれを蹴散らしてこぼす・・・
彼が言った言葉が「ジャマだ、こんなとこいるな、身元は調べたのか?」
非人間性が圧倒的に印象づけられる場面です。

その、余りにも非人間的なその行為対する乗客達の「エモーショナル」な動きが表情となってスクリーンに映し出されます。
おそらく見ている僕もそんな表情していたんだろうな。

軍曹は何事もなかったようにテーブルに着き、そうなんです、彼にとっては「何事もなかった」のです、任務を進めて、仮眠をとってしまいます。

老教授は給仕に、ミルク、温かいミルクをリクエストして、それを先ほどの若いお母さんの所へ運びます・・・・
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このシーンでオルミ監督のエピソードは幕を閉じます。

声高に軍曹-彼に象徴される「軍」という存在-の非人間性を叫ぶことなく、最後のシーンでそれをきわめて静謐にそして圧倒的に印象づける。そんな手腕に感服いたしました。

静謐と書きましたが、このオルミ監督のエピソード、全体を通じて極めて「静謐」なのです。「静かなる者は遠くまで行く」という格言がありましたが、静謐なるが故に奥深くまで浸透する。そのような映像でした。
そしてこの「静謐さ」は最後のケン・ローチ監督のエピソードととっても良い対照をなすものでもあります。


二つめのエピソードはアッバス・キアロスタミ監督。
青年と老婆が主人公となります。
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二人が登場する最初のシーンから老婆の傲岸さが垣間見らるエピソードが描かれます。
そして彼女の傲岸不遜・天動説的な性格はシーンが進むにつれてより鮮明となっていき、見事にカリカチュアライズされたその強烈なキャラクターには思わず顔を背けたくなるほど。

青年は息抜きにカフェテリアに行き(そこには次のエピソードの主人公達がたむろっている!)、トイレに逃れ、二人の少女に出会います。

しかしなあ・・・この老婆と青年はいったいどういう関係なんだろう?

この少女との会話によって青年の事が明らかになっていきます。
青年が兵役義務の最中であること、老婆は亡き将軍の妻で青年は兵役義務の一環として彼女をお世話していること、少女と青年が同郷であること、青年に妹がいること、
青年には恋人がいたこと、その彼女ががローマで歯科医をしていること、青年の父が死んでいること、青年が父の葬儀に参列できなかったこと・・等々
この手法はとっても「キアロスタミ」ですよね。

そしてこの少女のと会話は老婆が青年を呼びつける、叫びともいえるベクトルを持った声によって、たびたび中断されます。

少女との会話の最中、とっても柔らかな、澄んだ目をした青年。
老婆に理由なく罵倒され、やるせない表情を見せ、とてもうつろな目をする青年。
この二つの表情のギャップが見る者を切なくさせます。

最後に青年は「ぶちぎれて」老婆を捨てて姿をくらまし、老婆は(彼女は最後まで傲岸不遜だった)列車を降りて
一人ぽつんとプラットフォームに座っているシーンでこのエピソードは幕を閉じます。
プラットフォームに一人残る、この老婆を追うカメラの視点は、
青年とおしゃべりをしていた少女のそれです。
彼女は老婆に何を見るのでしょうか。
プラットホームに座り込んだ老婆は遠い目をして列車を追い、そしてあらぬ方向に視線がさまよいます。
老婆は何を見るのでしょうか。

このエピソードで描かれていた老婆のキャラクター、とても短絡的ですが、やはり「非人間的なモノ」と結びつけてしまいます。
それはこのエピソードの場合、それは軍であったり(亡き将軍の妻)、階級であったり(将軍の妻という階級)するわけですが。

そして「同郷」の「幼なじみ」と言える少女との会話によって「人間らしい」表情を取り戻す青年。そして彼はどこかに消えちゃう・・・

なにか後を引くモノがすーっと二本くらい残る、やっぱりキアロスタミらしいエピソードであったと思います。

三つめのエピソード。ケン・ローチ監督のエピソードです。
三人のセルティックサポーターが主人公です。
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すんげえ訛りのある英語で、最初は何語で映画が進められているか??状態だった私。
それが英語だとわかったのはしばらくたってから。。。ってくらいのスコットランド訛り(なんだと思います)のある英語で猛烈な勢いで喋くりまくる三人。
もう映画のリズムが、空気がスッカーンと変わります。見事な転回。見事な転調。

そのリズムに乗った彼らの、条件反射にも似た皮膚感覚的思考・行動がこのエピソードの鍵になります。

僕にとっては、その皮膚感覚がうらやましくもあります。
僕はサンドイッチ分け合って食べてるのを見て、スッとあげに行けるか?
僕はきれいなお姉ちゃんにを素直にナンパできるか?
僕は困ってる家族の話を聞いて素直に同情できるのか?
そして「替わりに罪を肩代わり」できるのか?
彼らにとってすべての事柄は「同列」です。それは彼らがセルティックを応援するくらい自然で、「深く考える必要のない」ことなのです。
切符を盗られて勘が働くのも、瞬間湯沸かし器のように怒りまくるのも、そして、つい罪をかぶってしまうのも、みんな同じ線上にあるのです。
いやいや同じ線上になければできないでしょう。
果たして僕は。。。という事を自然に考えちゃうくらい、主人公達は軽やかに描かれているのです。

あまりにも分別くさく、慎重に、立ち止まって、もっともらしく考えるが故に(ってたんに優柔不断なだけなのですが)
なにか失ってるモノがないかしらん。。。。。
そんなことさえ考えちゃいます。


最後は大団円。

列車はローマに到着し、三本のエピソードは結ばれてます。
彼らが罪の肩代わりをしたのは教授がミルクをあげたあの家族。
無事に父親と再会します。

消えたはずの青年も列車から降りてきて、まっすぐ前を見つめて、まったくぶれることなく歩いていきます。
彼はローマに、そう彼女のいるローマで降りるのです。

罪をかぶった少年達は・・逃げるんです。どんどん走るのです。どんどんどんどん加速します。希望に向かって、幸福に向かって・・・という感じなのでしょうね
このスピード感は、未来へ向かう希望のスピード。
見ている僕の感情もスピード感に乗っていき、そして映画は幕を閉じます。

この映画もう一度みたいなあ。。そんな幸福感を味わえる映画でした。

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